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当社は2002年4月に有料老人ホームと通所介護事業所を立ち上げました。
介護業界はどの地域でも利用者や入居者の獲得競争が厳しく、
当社も例外ではありませんでした。

集客のために様々なプログラムやメニューを積極的に取り入れ、
器具やマシンにも投資しました。
朝礼も毎朝行い、従業員研修も時間と費用をかけていろいろと行っていました。

私は朝一番に出勤し、常に現場にいて
従業員の行動で、注意すべき点があればその場ですぐに注意するなどしていました。
あるプロ野球の監督が
「悪い点はその場でスグに指摘しないとだめだ」と言っていたからです。

しかし目に見える成果はなかなか上がらず
ホームも最近まで満室になることはありませんでした。
研修もたくさん行いましたがスタッフの拒否反応も強くありました。

一生懸命やっているつもりでしたが
ある日私の運営方法に不満を持つスタッフから集団で申し入れをされました。
申し入れというよりつるし上げという感じがしました。
口々に私に対して不満が述べられ、
それに反論していくという不毛の時間が過ぎました。
そしてスタッフが次々と辞めていく事態となりました。

自分が行っていることは経営トップとして当然のことであるし、
辞めていく者は敗者だと思っていました。
ミーティングも頻繁に行い、スタッフの声を聞くよう努めたし
働きやすいような環境づくりをしているのに
理解できない連中ばかりだと思っていました。

しかし、創業以来事業所の柱となっていた男性職員が退職してしまいました。
これはかなりショックで彼の退職は
他の従業員や利用者にも大きな影響を与えました。
正直当社の施設は彼で持っていたのです。

退職理由は家庭の事情とのことでしたがそれは建前ということはわかっていました。
人づてに私のやり方に不満を持っていたことを聞いていたからですし
雰囲気で分かっていました。

当時の職場の人間関係も悪く、
ある職員に脅迫状のようなものが届き社内に混乱が起きました。
その職員はベテランで仕事もできるのですが他の職員と軋轢も多く
「あの人を何とかしてくれ」とも言われていましたが
辞められると困るので見て見ぬふりをしていました。
しかしそのベテラン職員も辞めることになり会社としては非常に困りました。

追い打ちをかけるように
7千万円の手形の支払いが回ってくるという事態が発生し
会社は存亡の危機を迎えました。
手形の振出人は社長の私になってはいましたが
創業当初に社長代行の親族が振り出していたもので私は関知していませんでした。
資金繰りに奔走する毎日が続き、なかばノイローゼ気味でした。

そんな時に、たくみの会のセミナーに初めて参加しました。

ネット動画で見て昔から武道武術に興味があったので
気晴らしになるかもしれないと思って参加したのです。

その時のセミナー内容はよく理解できず気晴らしにもならず
正直失望感が強くもう二度と来ることはないだろうと思って会場を後にしました。

しかしそれから1年半後になぜか再びセミナーに参加しました。
場所は滋賀県草津市の武道館でした。
それからなぜかたくみの会にのめり込み、
「何もしないこと」「手ごたえを求めないこと」の大切さが
徐々に体にしみこんでいくように感じました。

「やりたいことだけやり、したくないことはしない」という
一見非常識な教えもなぜか素直に入ってくるようになりました。

そして施設の年間行事をすべて廃止しました。
どこの介護施設でも行われている年間行事、節分、ひなまつり、端午の節句、
七夕、夏祭り、運動会、敬老会、クリスマス会その他をすべてやめたのです。
器具やマシンもすべて撤去しました。

そしてスタッフ全員にたくみの会セミナーを受講させました。
いきなり会場の京都に連れて行くのですが
内容を説明しないので(できないので)皆非常に不審に思いながら
業務命令なので仕方なく参加するという雰囲気でした。

しかし帰りには皆満面の笑みを浮かべ
「連れてきていただいてありがとうございました」
とお礼を言われました。
施設でも何度かセミナーをしていただきました。

そして現在、私はほとんど何もしなくなりました。
面白そうとかやりたいなあと思うことだけやっています。
現場に介入せず、支配せず、たくみの会方式で目的だけ示して、
キッカケだけを与えてそれぞれが自律的に動くのを見守っているだけです。
(最近は見守ってもいません。うっとうしいだろうと思うからです)
朝礼も廃止し、行事も廃止し、施設の壁に貼りまくっていたスローガンもすべて外し、
ミーティングも必要最小限まで廃止し、
報告文書も購入願箋も大幅に削除縮小しました。

私が会社員時代に「やりたくないなあ」と感じていた会社の決め事を
ほぼ廃止したのです。
職員からは本当に廃止するのですか?と心配する者もいました。
私の答えは

「だってやりたくないでしょ?
 みんなを見ているとやらされている感をすごく感じるのです。
 じゃあやらないほうがすこやかじゃあないかなと。
 すこやかであれば本来の才能が開花するのでは?」

このころから私の口からは
「すこやか」とか「やり方やりようではなくありよう」という言葉が
自然と出るようになりました。
そのうちになぜかホームは満室になりました。
これまで必死になって営業活動をしてきたのに入居率は低迷していました。
それなのに宣伝活動すらやめてしまったのに次々と入居者が来るのです。

デイサービスは地域に施設がたくさんできたため定員いっぱいとはいきませんが
近隣施設に比べてかなりの稼働率を維持しています。

離職する職員は減り、
私の知らないうちにいろいろな委員会や会議をスタッフが開き
パート職員なのに重い責任のある仕事を進んで担うようになりました。

腰痛や体の不調を訴えるスタッフも激減し
スタッフ間同士や私とスタッフの関係もフラットな関係になりました。
意見や方向性の対立はありますがそれが人間同士の対立にはならずにいます。

地域のケアマネージャーさんには
「パートの人が施設運営の立案をしているんですか!」と驚かれています。

そしてある日のこと、夕方5時過ぎにホームを見学希望の方が来訪されました。
私はホームについての説明やアピールなどはほとんどせず、
質問されたら答えるという接客方法をとるようになっていましたので
そのお客様とは会話らしい会話はあまりありませんでした。
そして案内を終えるといきなり「契約したいのですが」と言われました。

見学から契約までの最短記録となったのですが私は驚いて
「来ていきなり決めてしまっても良いのですか?」とお尋ねしたら

「いくつもの施設を見学しましたが
 ここのありようが一番気に入りましたので契約します」

とおっしゃったのです。

「ありよう」という言葉はふだんの会話でもまずあまり使わない言葉です。
私はとても驚いたのですが
なぜそんな単語を使うのかとも聞けず契約書を作成しました。
そのお客様は実印と手付金として現金100万円を持参してきており非常に驚きました。
その瞬間たくみの会で何度も聞いたフレーズが頭をよぎりました。
「始まった時には終わっている」

見学に来た時点ですでに契約しようと決定していたのです。これは本当に驚きでした。
そして入居されてから、
どうしてありようという言葉を使ったのか?
普段からそういう言葉を使っていらっしゃるのか、お尋ねしましたら
「そんなこと言いましたかねえ?」と逆に聞かれそのままになってしまいました。

しかしそれからというもの
見学して間をおかずに契約するというケースが相次ぎました。
入居者のどなたかが退去されてもすぐに次の入居者が決まるということが続きました。

私は相変わらずホームの説明は一切せず
質問されたら答えるというパターンの接客です。
あれこれ話そうとしなくて良いのでかなり楽な状態です。

今年度は第一四半期(3か月)で過去最高益を出し、
銀行や保険会社から節税対策商品をたくさんすすめられましたが
興味がないので「別に払えばよいのでは?」と思っています。
銀行は金利をどんどん下げてくれました。
とても協力的になってくれ、自宅の抵当権も外してくれました。

現在も私はほとんど何もせず、面白そうだなと思ったことだけをしています。
1月には擁護施設の子供を引率してUSJに行きました。
子供たちの楽しそうな顔を見て自分も非常に楽しみました。
これも使命感とかではなく楽しそうだからやっただけ、という感覚です。

今の会社の現状がたくみの会の効果なのかどうかは
検証する方法がないのでわかりませんが
自分としてはそれ以外に理由はないと思っています。

たくみの会では経営ノウハウなど教わったことは一度もありませんし
先生のお話されることも正直何を言っているのかわからない時もあり
ボンヤリ聞いていることも多々ありますが
意味が理解できなくとも非常に心地良く体が緩んでいくのが感じ取れます。

現在の介護業界は苦難の時代で
どこの施設も売り上げの減少や職員の確保、従業員の不祥事、苦情応対などに
大変苦労しています。
それを解決するようなセミナーや研修も大流行で今日も私のもとには
「介護事業所 強い組織づくりセミナー」と「介護事業所事業計画作成セミナー」
という聞くだけで疲労感漂うタイトルのDMが来ています。
正直なところこれといった決め手となる方法は無いと思っています。
すべて「やり方、やりよう」を追い求めているからです。

私の事業所がこういう状況になってくると同業の方が視察に来るようになりました。
私はすべて隠さずお話するのですがどなたにも信じてはもらえません。
経営者は何もしないとか行事も朝礼もやめなさい、
やり方やりようではなくありようです、と言っても通じないのです。
誰もがノウハウやハウツーを求めてくるのです。

仮にそれらがあったとしても
企業秘密とも言えるものをタダで教えてもらおうという魂胆に驚きますが
介護業界というのはそういうところがあるのです。

「地域の介護のレベルアップにつながりますし」みたいなことを平気で言いますので
他の業界の方からしたら驚きだと思います。
しかしたくみの会のことを知ってもらいたいと思っているので
すべてお話しするのですが信じてもらえません。
「3万円も出して大阪まで行って何が得られるのですか?」 ※この時点では大阪セミナーあり。
「行事をやめていったい何をするんですか?」           ↑上記注釈 by たくみの会
「セミナーってどんなことをするんですか?」
「たくみの会に行けば業績はあがるんですか?」
耳にタコができるくらい聞かれた質問です。

私の答えは
「何を得られるかですか?人それぞれなのでわかりません」
「行事をやめて何をするか?特に何もしません」
「セミナーの内容?説明できません。参加すればわかるかもしれません」
「業績があがるかどうか?そんなこと知りません」

これでほとんどの人はムッとして黙るか薄ら笑いを浮かべるか
「あ〜教えたくないんだな」というような表情を浮かべるかで
「貴重な情報ありがとうございます。ぜひ参加してみます」
というような人は一人もいませんでした。

しかしそんな人でもなぜか何度も来訪される人もいるので
「どうして何度も来るのですか?」と聞いたことがありますが
「よくわかりませんが何かヒントがつかめるかなと思って」と答えられました。
実はそうではないのです。ここの居心地が良いから何度も来るのです。
そしてかなり長い時間滞在されます。
私は基本的にどんな人が来訪しても可能な限り会ってお話しします。
飛び込みの営業マンも頻繁にやってきます。
そういう人が私と話しているうちに無駄な緊張が解け、
才能が開花してくるのを感じ取るのがとても楽しいです。

次に私がそもそもたくみの会に来る動機となった武道武術の体験について
お話します。

私が武道に興味をもったきっかけは
我々の世代に共通していると思いますがブルース・リーの影響でした。
従兄に連れて行ってもらった「燃えよドラゴン」に大変な衝撃を受けた私は
すぐに空手を習いに行きました。

当時小学6年生だった私は中国武術と空手の違いもわからず入門しました。
正式な道場ではなく小学校の敷地の中にあったひばり館という児童館で
自衛官の先生がボランティアで教えている程度のものでした。
空手は和道流で、先生は沖縄の出身で指導が上手な方でした。
和道流空手の動きはブルースリーとはかなり違っていましたが
それなりに楽しく結構真剣にやっていました。
でも、先生の転勤により教室は自然消滅となりました。

中学生になりブルース・リーと同じくらい影響を受けたカンフースターと出会いました。
アメリカのテレビドラマで「燃えよカンフー」というドラマに主演していた
個性派俳優のデビッド・キャラダインです。
少林寺で修業し、アメリカに渡って旅を続けながらさまざまな事件に遭遇し、
少林寺の教えで困難を乗り越えるというものです。
カンフーの技はあまりたいしたことはなかったのですが
主人公が回想する少林寺の教えが非常に哲学的でそちらに興味をそそられました。

高校に入り念願の少林寺拳法を習い始めました。
それとは別に当時少年サンデーに連載されていた「男組」に影響され
中国武術にものめり込んでいきました。
当時の中国武術の先駆者である松田隆智氏の本を買いあさり、
友人と二人で本を見ながら毎日学校帰りに練習・研究していました。
中国武術に対する興味は日増しに強くなっていきましたが
田舎では、いや当時の日本では中国武術を教えてくれるところなど
ほとんどありませんでした。

高校卒業が近づき大学受験をすることになりましたが
どうしても東京の大学に進学したいと思ったのは
東京には中国武術はじめ様々な武道の道場があったからでした。

しかしそんな理由を言うわけにもいかず、
「日本の首都でいろいろなものを吸収したい」と取ってつけたようなことを親に言って
東京に行かせてもらいました。

東京の大田区には中国拳法の道場があり、通信教育を行っていました。
当時の武道好きの少年なら誰もが知っている日武会です。
そしてもう一つ北区滝野川にある全日本中国拳法連盟です。
佐藤金兵衛先生が中国武術を教えており、先生の著書も持っていました。

しかし実際に習いに行ったのは別のところでした。
大学の武術サークルの先輩のすすめでした。
「どうせ習うなら本場の中国人の先生が良い」ということで
先輩の紹介で神奈川県の武蔵小杉というところまで習いに行くことになりました。

教えていただいたのは
台湾国籍の周先生という方で当時の年齢は50歳前後と思います。
道場などは特になく、紹介されてきた生徒を自宅で教えるというやり方でした。
先生は華僑で本業は漢方薬店の経営をしており、
武術の指導は趣味のようなものでした。
店は横浜と新宿と川崎に3店舗ありました。
また他に飲食店も経営していましたがすごいと思ったのは
中華料理店ではなくイタリアンの店だったことです。

中華料理店は数が多すぎて共倒れになる。
人がやらないことをやらないといけない、ということでイタリアンにしたそうです。
お店は新宿と渋谷にあり何回か連れて行ってもらいましたが
お洒落で料理もおいしくとても繁盛していました。
華僑=中華料理というイメージがありましたが非常に先見の明があった方で
漢方薬のお店では後にブームとなる薬膳料理も出していました。
今思えば経営者としてはかなり優秀な方だったと思います。

先生の功夫はかなりのもので、
先生が何気なく差し出した腕を「両手で下げてみなさい」と言われ
全力で腕を押し下げようとしましたがビクともしなかったことは
今でも鮮明に覚えています。
また現役の自衛隊の特殊部隊の人や
フルコンタクト空手の指導員クラスの人を相手に
組み手をしても簡単にあしらっていました。

私も何度も組手をしましたが
軽く打たれただけで全身がしびれるような
何とも言えないイヤな衝撃を受け気持ち悪くなりました。
練習は楽しかったのですが先生に打たれるのだけはとてもイヤでした。
そして練習が終わると必ず漢方薬のお茶を飲まされました。
これを飲まないと後遺症が出ることがあるという話でしたが真偽のほどは不明です。

しかし一度一緒に習っていた人が用事があるからと飲まずに帰り、
その日の夜一晩中めまいがして大変だったと話していたので本当かもしれません。

漢方のお茶と聞くとマズそうですが独特の香りが私は好きでした。
たまに奥様手作りのお菓子が出ることもあり、
非常にアットホームな雰囲気で練習していました。

先生は漢方薬を信奉しており、「どんな病気も漢方で治る」と常々言っていました。
当時まだ知られていなかった薬膳料理も店で出していました。
そんな先生も肝硬変には勝てず、私が30歳半ばの頃に亡くなられましたが
最後まで現代医療を拒否し、漢方だけで治そうとしていたらしいです。

習った武術は太極拳、少林拳、形意拳、八卦掌などで螳螂拳も少し習いました。
練習は結構ハードで終了時には動けなくなることもしばしばでしたが
同じように練習していた先生は息も切らしていなかったのは
とても記憶に残っています。

3年間通い、卒業後就職した会社の転勤で
3年後に再び東京に戻ってからまた3年ほど通いましたが
「突きが通るようになったね」と言われ
意味がやや不明でしたが嬉しかったことを覚えています。

地面から受けたエネルギーが体を通って拳の先に威力が通ったことだそうですが
脱力が完全にできないと難しい技術で
運動系の修練を積んだ人はなかなか力が抜けきらないそうです。

その頃同時に合気道も習いに行きました。
新宿にあるYという道場で達人といわれるS先生の神業を
何とか身につけたかったのです。

S先生はとても気さくな人で武術の達人ぽくありませんでした。
練習後に事務室によく生徒を呼んで大福餅や菓子パンなどを出してくれました。
話好きな方で少年部の子供にも慕われており、
寡黙な剣豪という武術の達人のイメージとは程遠いかたでした。

合気道の技はなんというか掴みどころがないというか
常に力が抜けている感じで先生に技をかけられるといつのまにか倒されている
という不思議な感覚でした。

しかしこれは長続きしませんでした。
1年ほど通いましたが技術体系が少林寺拳法と重なる部分があったこと、
またS先生の教える技は
あきらかにご自身がやっているものではなかったことから
これ以上通っても仕方がない気がしてやめたのです。
達人ではあるが人にそれを伝えることができないという
武術の世界のジレンマを感じたのと他にもやらねばならないこともあり
突然やる気が失せてしまい、やめてしまいました。

次に同じ合気道(大東流合気柔術)の佐川幸義先生にも習いたくて
人を介してお願いしましたが入門はかないませんでした。
弟子をとらないことで有名な先生で
数々の神秘的な技を披露していたそうですが実際にこの目でみたことはありません。

一方で少林寺も続けていました。
やはり柔術系の技術体系が面白かったのと、
開祖の直弟子であったU先生の技が素晴らしかったことは大きな魅力でした。
U先生の逆技は痛みをほとんど感じないのに倒されてしまうという
達人感満載の技でした。
少林寺の技は激痛を与えて戦闘不能にすると思っていたので
これはかなり衝撃的でした。
しかしやはり先生が教えるやり方はご自身がやっているのとは違っていました。

先生の技にはほとんど動きがありません。
それなのに私たちに説明するときは
「手をこうして」「足をこの方向に大きく動かして・・」と説明されます。
ある時思い切って先生に質問しました。
「失礼ですが先生の動きとまるで違うような気がしますが」
すると先生は笑いながら
「たとえばこう手を持たれてやな、」
先生は私に手をつかませるとふわっと投げました。
「こうやってやるんだよ、と言って理解できるか?」
つまり先生の動きを見てもいったいどのように投げているかわからないでしょ?
というわけです。

長い修業の末に身に着けたコツは
一瞬でほとんど動きが無いように決まってしまうので
弟子は「今のはどうやったの??」となってしまうわけです
そこでおそらくこうやって説明していったほうがわかりやすいんではないかな?
ということで実際に自分が行っているものと合致しているかはわからないのだ、
ということでした。

武術を人に伝えるということの困難さがここでも証明されたわけです。
「何しろ開祖に習っていたころは技をかけられるばかりでどうやってやられたのか
 まったく説明もなかった。何度も投げられたり投げるところをつぶさに観察して
 自分で研究して考えながら上達していった。開祖もご自身では、
 微妙なコツというのは教えられんとおっしゃっていた。
 まあ一番良いのは上級者に何度も技をかけられることかな」
というお話は印象に残っています。

そしてもう一つ私たちの年代で誰もが影響を受けたのが
「空手バカ一代」極真カラテでした。
地上最強をうたいフルコンタクト空手の先駆けでした。
私も池袋の本部道場を見学しましたが入門はせず大学の同好会に入りました。
しかし方向性が違うと感じて半年ほどでやめてしまいました。
相手の前蹴りが私の人中(鼻の下の急所)に入り、
前歯が4本折れてしまいとても続けられないと感じたからでした。

その他の武道は50歳近くまで中断しながらも続けていました。
38歳からはあこがれていたボクシングもやるようになりました。

40代後半に「達人」と言われるある先生のセミナーに4年間通うことになりました。
沖縄空手の先生なのですが還暦に近いのに
フルコンタクト空手のチャンピオンを苦も無く制する神技の持ち主でした。
YouTubeの動画を見て自分もこうなりたい、と思い、
4年間毎月大阪に通いましたがまったく技は身に付きませんでした。
ここでもやはり「自分はできるが弟子をできるように指導できない」という現象が
あらわれました。
もっともその先生は自分の技をできるように指導することはほぼしなかったのですが。

そして現在、たくみの会に行くようになってからすべての武道をやめてしまいました。
その理由は
これまでやってきたすべての武道武術は根底からまったく違っていたということが
わかったからです。
何十年修業してもまったく達人になれない。そもそも達人とは何か?
そういった根源的な問いについに明確な答えを示してくれるものに
やっとのことで出会った。そんな感覚です。

 

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